昭和から平成へ【67】
戦後の新生活。出会いと別れ
昭和から平成へ 第Ⅲ部 夢見るころを過ぎても(67)
昭和の森博物館 理事
根本圭助
(前号より)
昭和25年3月、私は新制中学の一期生として無事に中学を卒業して、6・3・3・4制の新学制のもと新制高校のこれも一期生として、高校へ進学することになった。
思えば東京を空襲で追われ、疎開っ子として柏の国民学校(小学校)へ転校して来た訳だが、転校一日目、新しい教室へ案内された直後、柏一小で当時同居していた高等小学校の先輩数人がドタドタっと教室へなだれ込んで来て、一人の生徒を袋叩きにし、去って行った。殴られ、蹴られ、踏みつけられて、Y君(後で名前を知った)は窓際で倒れたまま昼頃までぴくりとも動かなかった。担任の先生は、そんなことは全く無視して、授業を行ったことにも驚かされ、「とんでもないところへ来てしまった!」と夢中の一日目を過ごした。それからの毎日は暴力沙汰ばかり。しかし、連日の空襲の中、そんなことにも馴れるのに大した時間は掛からなかった。とにかく、生徒達の心も荒廃していた。
戦時中は中断していた県営柏競馬場が戦後復活し(昭和3年に開所したという)、競馬場へ向かう道には祭りの日の露天商のようにデンスケ賭博が連なり、駅前も競馬開催の日には、同じく賭博の人ごみでごった返していた。駅前の交番が逆に姿を消していた。こうした土壌もあり、この辺りの風紀は乱れに乱れていた(柏競馬場は昭和27年に廃止されている)。柏競馬場の廃止で、広大な空地が残った。跡地には映画のスタジオが出来るとかオートレース場になるとか様々な噂が流れたが、結局団地が出来ることになり、今の豊四季団地が完成し、昭和39年12月に入居が完了した。私が東葛高校に入学した頃は広大な空地のままだった。たしか一周が1600メートルだったか、体育の時間などで、生徒の態度が悪かったりすると、教師から「一周!」と声がかかり、時として「もう一周!」と命令されることもあり、走ることが苦手だった私は、その度にハアハア息をきらして、かって競馬が行われたコースをよたよたと走らされた。
中学2年生の時の担任渡辺先生(辺さん)の特訓で、当時のクラス全員が志望校に進むことが出来た。入学直後、クラス編成のため国語、英語、数学、社会の4課目の実力テストが行われた。新入生全体で、私なども各教課ともベスト3に入っていたが、これはすべて辺さんのお陰によるものだった。
辺さんは、その生涯を私達クラス全員に捧げてくれた感があった。その後辺さんは、浜松へ移り、数年後帰京して荒川区町屋で世帯を持って息子にも恵まれた。教え子の多くは、良くも悪くも辺さんの影響を心に強く刷り込まれていたが、その中でも私が一番辺さんの性格に影響された一人で、その交流も一番長く続いた。
昭和40年代の半ば頃、その頃経営不振で苦しんでいた劇団新国劇が、ほんの一時、フジテレビの事業局に籍を移していたことがあった。当時TVキャラクターの商品化の仕事で頻繁に局に出入りしていた私に事業局の辻勝三郎部長から新国劇の新橋演舞場公演の招待券をなんと大量100枚も無料でもらったことがあった。高い切符だし、無駄にしてはもったいないので友人、知人、観劇が好きそうな人に配りまくった。
大好きだった新国劇がさびれてゆくのは切なくて切なくて―。辺さんには10枚程送った。辺さんは私が切符を割り当てられて困っているものと勘違いして、少しまとまったお金を持って駆けつけてくれた。事情を説明し直して、お礼を言って引きとっていただいたが、それから数年後、突然現れて、「私の消息を訪ねる人が有ったら、連絡先を根本君にだけこっそり教えておくから―」と言ってメモを置いて帰って行った。何があったのか、文字通り糟糠の妻と呼べる奥様とも別れたらしく、その後、何回か置いていったメモの相手に連絡したが、連絡がとれず、それ以来ぷっつりと消息が途絶えてしまった。存命かどうか、今もって気にかかったままでいる。
昭和25年春、桜がそろそろ開花する頃、現在の柏中近くに小さな一軒家を購入し、私達一家は、仮住まいのアパートからその家へ移ることになった。何でも、建築主の靴屋さんが、自宅用に建てかけたが、戦後で商売がぐんぐん繁昌して、急きょ都内へ移ることになったそうで、父は「商売繁昌で引っ越すのだから縁起が良い」と紹介してくれた知人の話にすぐ飛びついた。家は未完成のものだったが、地木(じぼく・この地の木材)でしっかりした家だったのが、父が気に入ったもうひとつの理由だったらしい。屋根は杉皮のまま。壁も荒壁のままで、畳もなく、建具も入っていなかった。6畳と4畳半、3畳ほどの玄関と、廻り廊下の奥にトイレ。台所は掘っ立て小屋だが、一寸した土間がついていた。
土地は105坪程で、隅にポンプ式の井戸がついていた。この井戸はまさに地下水の水路をうまく掘り当てていたらしく、近所の家の井戸水の出が悪くなっても、私の家の井戸は、いつも威勢よく美味しい水が湧き出ていて、近所の人にも喜ばれていた。
早速畳を入れ、荒壁には渋紙をはった。
暴力で明け暮れた例の柏中が近くにあり、雑木林の中に私の家を含めて、住宅がぽつんぽつんと点在していた。すぐ裏に高木さんという家があり、この家の6人兄妹の末っ子の友の助さんが、後のドリフの高木ブーちゃ
んである。私達は当時「トモちゃん」「ロクさん」と呼んでいた。
高木さんの奥に清水さんという家があった。そこに玉ちゃんという美人さんが居た。たしか私と同年だった。少し後に新宿の伊勢丹に勤め、気性のさっぱりした娘さんだった。玉ちゃんは母親の連れ娘だった。両親はいわゆるヤクザ屋さんで、時折、庭でシャモによる闘鶏が行われていた。違法な職業なので、御主人は日頃から近所には気を使っていて、外見は人の良い温厚で世話好きな人で通っていた。
あれは私達が越してから、どの位たってからだったか、玉ちゃんの母親は色白で太ったおばさんだったが、松戸競輪で大穴を当て、「当たった!」と叫んで、その場で倒れ、心臓麻痺でそのまま絶命してしまった。
因みに大当たりの車券はそのドサクサの最中に失くなっていたという。
父はアパートの時代から、都内のお得意先まで自転車通勤をしていた。戦争が終わって、かっての軍需工場は一斉に農機具とかの工場に転向していた。ペンキの材料はもとより、刷毛その他の商売道具は工場へ置いてくると、間違いなく盗まれてしまうので、自転車へ積んで、この家へ移ってからも、相変わらず、自転車通勤が続いていた。
足立区には「日本火熱」という得意先があった。そこに笹崎たけし(たけしは人偏に黄)という人が居て、父は親しくしていて随分世話になった。
父は「ワタルさん」と呼んでいた。笹崎さんは元ボクサーで、戦争が終わったので、再びボクサーに返り咲くことになった。
当時人気ボクサーだったピストン堀口と闘い、引き分け以上だったらカムバックすることになった。
昭和21年ピストン堀口と後楽園球場で、2万5000人の観客を前に笹崎さんは闘い、引き分けとなった。
私達一家が今の家へ移るちょっと前には、笹崎ジムのオーナーとなり、後進の育成につくした。葛飾のお花茶屋駅の近くに「東華製作所」という得意先があって、父は戦後間もなくからこの工場へ一番多く通ったように思う。戦後は農機具メーカーになっていた。
戦後すぐのことで、会社の方で資金繰りがつかず、手間賃代わりに、完成した農機具が支給され、父は実家をはじめ、知り合いの農家に頼みこんで買ってもらったが、これが評判となり、近隣の農家で引っ張りだこになった。実はお花茶屋には、祖父が私の将来のためにと言って4軒長屋が2棟用意してあったが、これが戦災を免れた。私は自分が住まいで苦労していたので、「大家さん」と呼ばれるのが嫌で、家賃の集金に祖父の代わりに仕方なく出かけたことが何回もあった。つらかった。
近所の玉ちゃんの悲しい最期まで書く心算が、今月も紙数が盡きてしまった。父のこと、玉ちゃんのことは、また稿を改めて書かせていただくことにする。